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光受寺通信を文章でよむ

 

光受寺通信を「文章で読みたい」とリクエストがございましたので、
「住職のはじめの一節(序文)を」
そのまま文章でもお楽しみいただけるように追加ページを作成いたしました。

   
  • 2025年06月17日執筆
  • 先日、いつも学習会に積極的に参加してくださる方が、『歎異抄』の学習の内容に関連して、ご自分が78歳の誕生日に書かれたという遺言を紹介してくださいました。

    この遺言を書き残される機縁となったのは、光受寺からの団参であったと思いますが、その折には奥様とともにご参加をいただき、お二人とも「おかみそり」を受けられました。「仏弟子」としての名告り(なのり)をされたのです。

    今年で90歳を迎えられるという方なのですが、今もお元気に畑仕事をしていらっしゃいます。「おてらサロン」にも「光受寺学習会」にも積極的にご参会いただき、光受寺の教化活動の礎をともに築いて下さった方でもあります。

    ここにその内容をご紹介させていただきます。

    遺偈(遺言)

    昭和十年 誕生以来 昼も夜も 一秒も休むことなく心臓を

    働かせ生かし続けてくださいました。

    ただただ ありがたく感謝のほかありません。

    有り難うございます。この先いただく 命のおわりも

    御仏の慈悲のはからいとして いつでも合掌のうちに

    受け入れさせていただきます。

    南無阿弥陀仏

    七十八歳誕生日

    釋  光順

    ちょうど今の私の年齢と同じ年に書かれたものです。今までの人生への感謝と、これからの人生のゆるぎない決意が述べられているのです。

  • 2025年05月10日執筆
  • 自然からのはたらき

    緑の美しい季節がやってきました。私にとっては一年で一番過ごしやすい時期でもあります。この時季になるとなんとなく気もそぞろとなり、どこかへ出かけたくもなってきます。

    どこかへ出かけるといっても、特別な場所でなくてもよいのです。緑に身を包まれてゆっくりと時の流れに身を任せられるような場所であれば、どこでもよいと思っているのです。

    時々、突然に思い立っては車で出かけ、ほとんど人にも車には出会わない山道を走り続けることがあります。途中見晴らしの良い場所でもあれば下界を見下ろしながら、思い切り深呼吸をするのです。ただこれだけのことなのですが、私にとってはとても幸せな時間に思えてくるのです。自然の中にこの身を置くと「心が洗われるようだ」と言いますが、確かにそんな気持ちにもなるものです。

     

    「心が洗われる」を辞書で引いてみますと、「心の汚れや、煩悩が清められ、すがすがしい気持ちになること」とあります。私には心の汚れや煩悩が清められるかどうかはわかりませんが、よくよくこの言葉を噛みしめてみれば私たちの日常は心の汚れ、煩悩まみれで生きているということが大前提になっている言葉です。

    『歎異抄』には「よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことのみにておわします」と、濁世を生きる私たちの姿が言いあてられてもいます。

    私たちは大自然の、あるがままの偽りのない世界に包まれることによって、自ずと己の日常が浮き彫りにされてくるということでしょうか。私の感じた幸せは、自然のあるがままの美しさに、安らぎと優しさと、そんな世界へのあこがれの心をいただけたことでしょう。


     

  • 2025年04月08日執筆
  • 「朝顔に釣瓶とられてもらひ水」

    この句は加賀の千代女といわれ後に52歳で剃髪し、法名 釋尼素園の有名な句ですが、

    北陸の吉崎御坊(蓮如の里)には、こんな句碑が建てられています。

    「うつむいた処(とこ)が台(うてな)や菫草(すみれそう)」

    この句は60歳の春に吉崎御坊に参拝した時の句といわれていますが、

    参道の片隅にひっそりと咲いていたすみれ草に目が留まったのでしょう、そして、それは

    人間から見ればきっと条件の悪い場所に花を咲かせていたにちがいありません。

    厳しい人生を歩んできた千代所の目には、場所を選ばず、どんな理不尽な場所であろうとも

    ただただ頭を垂れて美しく咲いているすみれ草の姿に、ハットわが身を振りかえさせられ、

    この句が生まれたのだと思われます。

    私たちは、自分の置かれた環境や居場所に不平不満を募らせ、居場所を見失いさまようことも

    多いものです。

    今ここを生きようと真の居場所を見つけた時、そこが台となるのです。台とは仏様の蓮台

    (蓮の花の形をした仏像の台座)のことですが、千代女の目には、今ここを喜んで咲いている

    すみれ草が台に立つ仏様の姿に見えたのかもしれません。

  • 2025年03月16日執筆
  • こめの価格高騰に揺らぐ

    物価の高騰が止まりません。

    米の価格上昇率には驚くばかりですが、野菜やガソリンといったものまでの軒並みの値上がりには、悲鳴が上がります。特に年金生活者にとっては節約と我慢の限界が見えて、行く末の不安はつのるばかりです。

    しかし、そんな状況であっても景気の良い話もあるものです。先月のバレンタインデーでは一人で何万円ものチョコレートを買う人がテレビに映し出されていました。「自分へのご褒美」にと嗜好品(しこうひん)に多額のお金を使える人がうらやましく思えましたが、決して気分の良い話ではありませんでした。一円でも節約したいと悪戦苦闘して生活している人とのあまりの違いに驚かされてしまったからです。

     

    さて、弥生3月には、「お彼岸」を迎えます。「お彼岸」は一般的にはご先祖の供養をする仏事とされていますが、私たちの浄土真宗では亡き人に供物を捧げ、追善することで自分の幸せを祈願する行事ではありません。

    「彼岸」とは阿弥陀仏の「浄土」を指しますが、「浄土」は私たちが還っていく世界であると同時に、迷いの世界(此岸)に生きる私たちのあり方を照らし出し、本当に「その生き方でよいのですか」とはたらきかけてくる世界のことでもあります。お彼岸には浄土へ還って行かれた人を偲ぶとともに、改めて自分の生き方を振り返る大切な時なのです。

    光受寺におきましても春季永代経のお勤めがございます。是非このご縁に出会っていただけますことを切に願っております。


     

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