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光受寺通信を文章でよむ

 

光受寺通信を「文章で読みたい」とリクエストがございましたので、
「住職のはじめの一節(序文)を」
そのまま文章でもお楽しみいただけるように追加ページを作成いたしました。

   
  • 2019年08月05日執筆

  • 西方浄土

    「ああ、今日も一日が過ぎていく」。そんな思いで夕日を眺めることが何度となくあるが、なぜか言い知れぬさみしいが込み上げてくるものだ。それはたぶん残り少ない自分の人生と重ね合せて、少し感傷的になっていたからなのだろう。西方浄土。その美しさを眺めていると確かにその果てには安らかな世界があるように思えてきたりもするものだ。

    「西方浄土」という表現は11世紀以降、浄土教の流布に伴って一般化し、平安朝末から中世には、落日に向かって西方浄土を観想する日想観が流行したのだと伝えられている。阿弥陀さまは、真実を見る眼がない凡夫の私たちのために浄土を「西方浄土」というと方便によってお示しになられたものであろう。いずれにせよ一心に浄土へ生まれたいと願う思いは大切にして生きていきたいものである。それは同時に阿弥陀如来のすべての者を平等に救いたいという願いを信じ、応えていく歩みでもあるのだろう。ただ念仏して。


     

  • 2019年06月30日執筆

  • ありがとう

    若さを保つとは、もちろん肉体的なこともあるのでしょうが、精神面の保ち方が大きな比重を持っているように思われます。年は取っても鮮度を失わない心は、生き生きとしていて人間としての魅力を強く感じるものです。

    ところで、私たちの日常は仏法のご縁の中で生かされているのですが、私たちはそれに気づくことは少ないようです。それは日常が「当たり前の世界」としてしか受け止められていないからでしょう。感謝の思いも、日々刻々と変化する新しい世界との出会いの中で発見できる感動が発露となって、しみじみとした感謝の思いとなっていくのでしょう。「生きている」のか「生きていく」の違いもここにあるのでしょう。

    アジサイの植木鉢の下からダンゴムシが出てきました。明るい日差しに驚いたのか一目散に駆け出し、再び植木鉢の下に潜り込んでいきました。メダカの卵が孵って、小さな小さな命が生まれました。この「小さないのち達」も、みんな与えられたこの地球という場(環境)で、すべての生き物と共存し懸命に生きていく命なのです。意味のない命など、どこにもないと思うことです。

     

  • 2019年06月10日執筆
  • 人間は死んだら終わり、と人は言う。しかし私は死んだら終わりのような人生を、今歩んでいるの だとは思いたくはない。「何のために生まれ、何のために生きているのか」。この問いを問い続ける 人生に「死んだら終わり」かどうかの応えは自ずと知らされてくるものだと思っている。「死んだら 終わり」は、ともすると自分勝手な思いに結びつきそうで、空しい人生になりそうな気がしてならな い。 真宗では死んだら「浄土へ生まれ往く」のだと説かれている。そしてまたお浄土から南無阿弥陀 呼び声となって再び還ってくるのだとも説かれている。後生があるのかどうか、それは「信ずるよ りほかに別の子細なきなり」(歎異抄)ではあるが、今の私にとって「信」をいただくということは、 何のために生きているのかを問い続けていくことでしかないと思っている。

  • 2019年05月07日執筆
  • 自覚

    境内は柔らかな緑で一面が覆われ始め、自然の生命力を五感で感じられるとても良い季節になってまいりました。

    さて、近年は高齢者の運転事故が際立っているようです。しかも大事故につながる例も多く、大きな社会問題ともなっています。私も今年、高齢者講習を受けてまいりましたが講義で繰り返し話に出たのは、「自覚を持って安全運転に心がけよ」ということでした。

    「自覚」とは本来は仏教用語で、まさに「自らを覚る」ということなのでしょうが、一般的には「自分自身の置かれている状態や自分の価値を知ること」といったところでしょうか。

    「他人のふり見て我が身を直せ」とは言われます。「他人のふり見て」がご縁となり、「我が身を直す」のが自覚となってくれば問題ないのですが、どこまでも他人事で「自覚」にはなってこないのはどうしてでしょう。たとえそれが生死に関わるご縁であったとしても、ご縁がご縁となってこないです。私とは、ほんとうに厄介なものです。


     

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