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光受寺通信を文章でよむ

 

光受寺通信を「文章で読みたい」とリクエストがございましたので、
「住職のはじめの一節(序文)を」
そのまま文章でもお楽しみいただけるように追加ページを作成いたしました。

   
  • 2018年08月31日執筆

  • 秋の永代経

    この夏、私たち夫婦は、およそ30年ぶりに一泊二日の旅行に出かけました。日ごろはお寺の宿命みたいなもので、夫婦で家を空けることは難しいのです。しかし今回は、幸い若院に寺役を任せられるようになりましたので、思い切って出かけることにいたしました。行先は信州方面でしたが、7月末のあの暑さには閉口させられてしまいました。

    まずは善光寺へ。親鸞聖人が越後から関東へ向かわれた途中、ここ善光寺に100日ほど滞在されということです。爪で彫られたという石仏の阿弥陀如来は少し離れたところの小さな御堂に安置されていましたが、外からは確認できませんでした。石を爪で?眼病治療の信仰がある?とか少々疑問に思われるところあるのですが、法然亡き後、関東布教への思いを固めた大切な場所ではなかったかと思われ、感慨を深めたことでした。本尊に松の枝をお供えされる聖人の銅像もあって、縁の深さが感じられた場所でした。

    松代城跡や上田城跡等スケジュールはきつかったのですが、長野の道路はとても走りやすく疲れを感じることはありませんでした。ほぼ思い付きの旅でしたが、「これが最後の旅かも知れないね」。の妻の言葉に、「確かにそうかも知れない」。と、少々しんみりいたしました。

    次回があるならば、聖人が越後に流罪になられ、船で降り立たれたという居多ケ浜(ことがはま)を是非とも訪れてみたいと思っています。聖人は「海」という言葉を比喩としてよく使われていますが、ここ日本海の厳しい海を思い起こしてのことではないでしょうか。「本眼力にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき 功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし」 (高僧和讃)

  • 2018年08月09日執筆

  • 暑い夏

    今年の夏の暑さは尋常ではない。

     

    人に会えば「暑いですね」が決まり文句の様に出てくる。しかしこの異常とも思われる現象は暑さばかりではなかった。
    極端な集中豪雨は人間の思いをはるかに超えた被害をもたらした。
    これは日本だけでなく地球規模での現象であることは、憂うべき地球の現在の姿なのだ。

     

    地球の誕生はおよそ46億年前といわれているが、そのころの原始大気は主にヘリュウムと水素から成っていて高温高圧であったようだ。

    これは現在の太陽の成分と似ているというが、そこにやがては生物が誕生し、人間をも生きられる環境が大自然の長い年月の営みによって整えられてきたのだ。

     

    そして自然を享受し、自然とともに生きる生き方から、やがては自然を克服し、戦う生き方へと、いつしか変容してきてしまったようだ。
    暑ければ冷房、寒ければ暖房等々と、ひたすらに快適と便利さを追求してきた文化がある。
    しかし今、私たち人類は人間の都合に合わせた便利さの追求には限界がきていることを自覚しなければならないのだ。

     

    「足るを知る」(たるをしる)。
    あの森鴎外の『高瀬舟』の罪人、喜助の言動に、わが身を振り返えさせられ、喜助の頭から毫光(ごうこう=後光のこと)が射しているように思わせられたという同心、羽田庄兵衛のように、私たちもここらで、この「厳しいご縁」のもと目を覚さなければ、人類の未来は見えてこないように思われるのだ。


  • 2018年07月03日執筆

  • それおもんみれば

    「それおもんみれば、人間はただ電光朝露(ちょうろ)の、ゆめまぼろしのあいだのたのしみぞかし。~中略~
    もしただいまも、無常のかぜきたりてさそいなば、いかなる病苦にあいてむなしくなりなんや。
    まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も、財宝も、わが身にはひとつもあいそうことあるべからず」(お文、第一条の11)

     

    21世紀は「心の時代」と言われて久しくなるが、近年の社会のあり様を見てみると、身勝手な犯罪も多く、尊属殺人さえも日常的にと言っていいほど起きている。とうてい心の時代の到来などと言うことなどできはしない。

     

    最近、紀州の億万長者の死がマスコミを賑わしているが、「不審死」として取り扱われているようで、あれこれと憶測が飛び交っている。「不審死」かどうかは私には分からないが、亡くなられた方の人生を思うとき、とてもあわれに思えてくる。まさにお文さまの通りだな、と受け止めさせていただいている。

     

    どんなに経済的に豊かで、強がりを言っていても、人の生の真実に逆らうことはできないのだと、彼は身をもって教えてくれているような気がする。「愛犬」の死は彼に何をもたらしたのだろう。最後の最期まで自分の財力だけを頼りにしていた悲しい凡夫であったのだろうか。 合掌


  • 2018年06月07日執筆

  • 無宗教って

     あるご法事の席で「私は無宗教です」と言われた方がありました。

     

    「無関心」でない限りは「無宗教」と言われれば「特別に拠り所とする宗教」はもってはいない人なのだと思っていましたが、後にこのことは自身の真宗門徒としての在り方を振り返させられきっかけにもなったのです。

    かつて「真宗門徒一人もなし」という懺悔から始められた「同朋会運動」が今から60年以上前に起こされましたが、はたして私たちはその間、この問題にどう取り組んできたか。
    「本願念仏を拠り所として共に門徒として生きよ」という宗祖の呼び声に耳を傾けてきたのか、と改めて考えさせられました。

    確かに今まで「同朋会運動」の活動の一環として推進員養成講座や様々な研修会などに出席をしてまいりましたが、どこか漠然としていて、己に突きつけられている課題として、厳しく受け止められていなかったように思えてきたのです。
    「私は無宗教です」は「自身はどうなのだ」と言われたように思いました。今まさに、己自身の懺悔に「真宗門徒一人もなし」を心に深くとどめ、宗祖の教えに聞いていく学びを共に続けていくその時だと受け止めさせていただきました。


     

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