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光受寺通信を文章でよむ

 

光受寺通信を「文章で読みたい」とリクエストがございましたので、
「住職のはじめの一節(序文)を」
そのまま文章でもお楽しみいただけるように追加ページを作成いたしました。

   
  • 2020年02月04日執筆
  • コロナウイルス

    今年も暖冬のせいか梅の開花も随分と早い。境内の早咲きの梅は一月中旬にはすでに咲き始めていた。例年からすれば10日ほど早いことになる。この分だと2月下旬には全ての梅が咲きそろい「観梅会」の頃にはすっかり見ごろを過ぎてしまうのではないかと心配している。

    さて、年が明けてひと月あまり。世間の話題に尽きることはないが、とりわけ新種コスモウイルスの話題には無関心ではいられない。ましてや人から人への感染が現実のこととなると不安と恐怖が倍増し、神経質になってくる。

    やがて日本でオリンピックが開かれる。大きな経済的効果を見込んでのオリンピックでもあろうが、まずは安心、安全の日本を来日者に提供することが必須であることを忘れてはならない。一日も早い終息が願われるところである。さてさて大変な一年の幕開けとなったことだ。


     

  • 2020年01月06日執筆
  • 失いたくない「感動する心」

    「もういくつ寝るとお正月 お正月には凧あげて こまを回して遊びましょう」。ご存じこの歌は滝廉太郎作曲の、今では懐かしい童謡、唱歌である。

    明治から昭和にかけての子どもたちが、どれだけお正月の来るのを楽しみにしていたかがよくわかる。男の子は独楽回しや凧あげを、女の子はてまりを撞いたり、追い羽根を撞いたりと、日本のお正月のまさに風物詩であった。しかし現在では「明治も昭和も遠くなりにけり」か、てまりを撞いたり、独楽を回している子供の姿はほとんど見受けることは無くなってしまったようだ。

    私たち昭和生まれの人間にとっては「盆」と「正月」は特別の日であった。特にお正月ともなれば親の目も緩みがちとなり、少々のわがままは聞き入れられた。僅かだがお年玉がもらえ、新しい服や靴も買ってもらうこともできた。貧しかったがゆえか普段では味わうことのない「感動」を、お正月はいっぱい与えてくれたものだった。

    物にあふれ、足ることを忘れてしまった現代社会。「驚くこと」はあっても「感動すること」が少なくなったようにも思える。未来を担う子供たちに「感動する心」や「物のありがたさ」を取り戻すことはできるのだろうか。「除夜の鐘」がうるさい、「子供の声がうるさい」としか受け止められなくなってしまった社会に生きる私たちに、いったい何ができるのだろうか。


     

  • 2019年12月09日執筆
  • 信じること

    最近気になる言葉に「自分を信じて」ということがある。これはスポーツ選手がよく使う言葉であるが、追い詰められた土壇場で使う言葉として出てくることに、驚きを感じるのである。

    そもそも私は自分が信じられるほど自信がないことから、彼らほど精神的に強くないということになる。「えらいもんだな~」。少し懐疑的になりながらも、いつもそう思うのである。

    「信じること」それは当たり前の事ではあるが「何を」という対象が気になるところである。仏教でいえば、とりわけ真宗でいえば「阿弥陀如来の誓願」を信じるということになる。ただ真宗では「信じよう」と努力するものではない。すでに私たちの意思に関係なく、生まれながらにして阿弥陀如来から平等に願われ愛されていることに気づき、感動できるかどうかというところに「信心」の受け止めがあるということなのだ。

    つまり、すでに与えられているものを受け取れるかどうかということで、「信じる」「信じない」ということではないということだ。勝つか負けるか、損か得かを自分の根性に据えて、何かを「信じる」という世界の話ではないということになってくるのだ。あるがまま、ただ念仏して。そう思うと気持ちも穏やかになってくる。ありがたいことではないか。


     

  • 2019年11月07日執筆
  • 御恩と感謝に生きた人

    軽減税率わしには分からん。「一物二価」に「ポイント還元」「現金不要時代の到来」に困惑しきり。携帯電話も本当は持ちたくないし、ましてやスマホなど「まっぴらごめん」と言いたい。しかし使わなければ世間に取り残されていく気がして、不安はつのり、迷いは深まるばかり。

    それというのも、今まで便利、便利と飽くなき追求のその先に見えてくるものは、「幸せなんだ」と思い込まされてきたが、ずいぶん裏切られてきたような過去の記憶があるからだ。

    その一例として、かつて給料振込の強い要請に私は最後まで抵抗していた者の一人であったが、手渡しと振込では、たとえ事は同じことであってとしても受け取る実感がまるで違うなと思っていたことがある。確かに事務量も減り、合理的で安全性ではあるかもしれないが、振込通知書一枚だけでは空しい思いが残っていたことを思い出す。

    家に帰って妻に渡すこと、妻がそれを受け取り慰労の言葉を述べること、子供が見ていること、その一コマの情景に今では忘れられた大切なものがあるような気がしてならない。数字だけが飛び交う世の中は、どこかさみしい思いがしてならないのだ。

    いずれにしても昔人間には生きづらい時代が来たものだと、つくづくと思えてくる今日この頃である。


     

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