Communication
光受寺通信を文章でよむ
光受寺通信を「文章で読みたい」とリクエストがございましたので、
「住職のはじめの一節(序文)を」
そのまま文章でもお楽しみいただけるように追加ページを作成いたしました。
光受寺通信を「文章で読みたい」とリクエストがございましたので、
「住職のはじめの一節(序文)を」
そのまま文章でもお楽しみいただけるように追加ページを作成いたしました。
最近のテレビ番組を観ていると、いくつか気づかされることがある。一つには、どこのチャンネルを観ても芸人さんが出演し、番組を盛り立てていることである。また民放においてはやたらコマーシャルが多く、本来の放送内容とほぼ半々で構成されていることである。いずれも資本主義社会においては視聴率が上がらなければ、スポンサーにとっては意味のないことであろうからと、納得し楽しんではいるが、少々イラつくこともないわけではない。
ただ、公共の電波を流しているわけだから、正してほしいと思うものもいくつかある。それは出演者の言葉遣いである。「ぜんぜん~という時」の「ぜんぜん」に呼応する言葉の使い方が明らかにおかしいと思われるのに「ぜんぜん、おいしい」。とか、肯定する言葉が文末におかれるのは、全く不可解である。それが流行語のように頻繁に出現してくるのは一体どういうことなのか。何となく「強調」したい言葉として使われているのかなとは思うのであるが、入試問題であれば当然間違いであろう。また他には老いも若きも「かわいい」という言葉を多用するのが流行のようなのだが、「誉め言葉」としてなんでもかんでもひっくるめて言い表すは分かりやすいようで、とても分かりにくい言葉でもある。
最後に、笑い話や、おかしい、では済まされないものもある。漫才や、コントでの頭たたきは、昔からあったものではあるが、それによって笑いを取っているのは、絶対にやめてほしい一つである。わずかな時間に何度でも相手の頭をたたくのを見ていると気分が悪くなる。それを観ていて何が面白いのか、大笑いする観客もどこかおかしく思えてくるのである。人間の奥底にある自覚されない醜さが証明されているように思えてならないのである。
情報化社会においては、常に冷静な眼をもって接しなければいけないと思われることだ。
「よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまこと
にておわします」。 『歎異抄』・・・真宗聖典 P640
この言葉は親鸞聖人が常に語っていた『歎異抄』に伝えられている言葉です。要約すれば、「この
世の中には、うそや、いつわりの言葉ばかりで、まことの言葉はないのです。ただ「念仏」一つが、ま
ことの言葉なのです」。と受け止めることができます。
近年はウクライナ戦争をはじめとして、コロナ感染に関わる問題等、社会を揺るがすような事件、
事故等が様々に頻発し、その度ごとに、その状況、情報を見聞きしてきました。また縁起担ぎや語呂
合わせまでに心惑わせている私たちの人生。「いったい何を信じて生きて行けばよいのだろう」。そ
んな思いが深まるばかりです。
親鸞聖人は「念仏」一つに生きた人でありました。人生の暗闇の中をさまようように生きた親鸞に
とって念仏は、迷いの中に生きる自分の姿を照らし、生きる道筋を指し示してくれた言葉であったの
です。
この混迷の世の中にあって今、私たちは真実を見つめる眼を見開き、ゆるぎない支えとなるよう
な、力のある言葉に出会っていきたいと思うことです。
昨年あるご門徒のお宅へ「おとりこし」に出かけ折の事でした。80 代の
ご主人のお話に深く頷かされました。
長らく病気がちな方ではありましたが、健康のためにと何キロか歩くこ
ととを、日課にしていらっしゃいました。私は「まだ頑張ってみえますか」。と
お尋ねすると、「まあ、あんまり歩いとらんな。寒かったり、雨が降ったり、
暑かったり、いろいろ理由を付けて怠けとるわな。行きたくない時はいっ
くらでも理由は付けられるでな。たとえお天気が良くてもな」。~笑い~
続けて「この年まで生かされてきたので、本当は感謝の気持ちを持たな
あかんのやろけど、ちっともそんな気持ちが起こってこんのですわ。もっ
と、もっと、と思う気持ちだけが大きくなるだけで、どうしようもないで
すわ」。私はその深いご自覚のにじみ出た正直なお話に、「私もいっしょで
す」。と言いたかったのですが、なぜか口をつぐんでしまったのです。
私は恥ずかしながら、ブログを書いています。書き始めて今日(14日)で11年と72日が経ちました。その間に845のブログを書きました。平均すれば5日に一度は書いていたことになります。書くきっかけは、光受寺のホームページを作成していただいた先生からの勧めがあったからなのです。
書いていることはたわいもないことばかり。誰かに読まれるととても恥ずかしいのですが、ネットで公開するという大胆なことまでやっているのです。これは自分をさらけ出すことで、良いも悪いも自分に責任をもって生きたいという強い思いがあったからなのです。
10年前はどんなことを思っていたのだろうか。久しぶりにネットで振り返ってみました。2012年11月30日の記事です。(単なる思い出ではなく、自己再確認ためでもあります)。
今日報恩講に向けての準備として「おみがき」がおこなわれました。午前9時からお昼までの間でしたが、重たく大きな仏具をごしごしと磨いていただきました。おかげさまで報恩講の最初の準備が整ったことになります。
若い女性も、足が痛くて正座できない方も、男性2名を含めて18名ほどの方が黙々と磨いてくださいました。一年間の仏具の汚れを落とすのは結構大変なことです。最近は汚れを落とすのに、簡単な薬剤もあって便利ではありますがこうして一つひとつの仏具を布でごしごしと磨くのも、意味のあることなのだと思えるのです。
お荘厳(おしょうごん)。仏華や香も蝋燭も、そしてこの皆様の御心も一緒に報恩講のお荘厳としてお内陣を整えていくのです。報恩感謝。この思いを込めて汗してくださった皆様の労力には、布施としての意味合いも込められた輝きがあるように思えたことでした。寺役でご一緒にできなかったお磨きでしたが、本当にありがたいことでした。もし、日曜日などにできる機会があれば子供たちにも参加させてやりたものだと思ったりもするのです。来年以降は、親子で参加ということもありかなと、思ったり・・・。うーんん、いいかも。 (お孫さんもご一緒にいかがでしょう)。