Communication
光受寺通信を文章でよむ
光受寺通信を「文章で読みたい」とリクエストがございましたので、
「住職のはじめの一節(序文)を」
そのまま文章でもお楽しみいただけるように追加ページを作成いたしました。
光受寺通信を「文章で読みたい」とリクエストがございましたので、
「住職のはじめの一節(序文)を」
そのまま文章でもお楽しみいただけるように追加ページを作成いたしました。
KDDI のシステムトラブルによって、多くのユーザーが大混乱を起こし、様々な被害を被った。私も
携帯電話として au を利用していることから、何か緊急な連絡が入りはしないかと多少不安はあっ
たが特別に困ることはなかった。そもそも普段から「かける」「うける」のみの利用者であることか
ら、一週間一度も使わない日もあって、基本料金を払うのがもったいないほどだと日頃から感じて
いるほどだ。
しかし、スマホに頼り切っている現代人にとっては、「おおごと」であったとことは容易に想像が
できる。生活に不便を感じる程度ならまだしも、命に関わるようなことで連絡が取れないとなると、
これは一大事である。しばらく前までは公衆電話も点在し、大いに助かったものだが、今ではほと
んど見当たらない時代となってしまった。また今回の場合は、たとえ公衆電話が使えたとしても相
手の携帯、スマホがトラブルの対象機種であれば、全く意味を為さないということになってしまっ
たのである。
便利さの裏には便利さ以上の不自由さが潜んでいることを思い知らされた今回の出来事でもあった。
ウクライナでの戦争が始まって以来、物価があれもこれもと値上がりをしている。中でも食品関係は特に心配されるもののひとつである。国内自給率の極めて低い日本においては、はたしてこの先の節約だけで済まされる問題なのだろうかと思われてくるのである。
カロリーベースの試算(令和2年度)では国内での自給率は37パーセント程だとか、あとは輸入に頼っているとのことである。ちなみに1946年戦後の日本においては自給率が88パーセントだったというが、なぜこんなにも落ち込んでしまったのだろうか。
難しいことは分からないのだが、一つには高学歴社会に伴い、次世代を担う若者の農業離れが起因しているようにも思われる。「農業では生活ができない」。「農家に嫁が来ない」などなど、農業は若者にとって、いつしか魅力のない職業の代表になってしまったからではないだろうか。
しかし今、日本において「食料確保」の問題は、気候変動の問題や、社会の情勢の不安定化から先の見えない危機的状況にあると言っても過言ではない。この現実を重く受け止め、改めて農業を見直し、農業の活性化と、魅力ある農業の実現を目指していかなければ、日本の将来は見えてこないように思えてくる。いくらお金を出しても手に入らない時代の到来も、もうそこまで来ているように思えてしかたがないのだ。
「核爆弾」に「生物化学兵器」、これは戦争を想定して開発されたものに間違いはない。核保有国が核を持つことを正当化しようとする苦し紛れと思える理由には、戦争を起こそうとする国への抑止力のためだという。核武装することで他の国を沈黙、屈服させようとすることは、その国が世界の独裁的立場立っているということにほかならないのではないか。それが自国民か、世界の国々へ向けてのものかだけの違いであって、いわゆる独裁国家と言われる国であってとしても、そうでない核を保有する民主国家であっても、この一点からすれば、何ら違いはないだろう。
アメリカの銃社会にも大いに疑問を持つところである。いかに保身のためとはいえ、使えば人を殺すことになる。銃も核も立派な人殺しの武器である。
仏法に乞う。歎異抄(聖典634)には「さるべき業縁のもよおさば いかなるふるまいもすべし」とある。私たち一人ひとりに深くその自覚を促す言葉して述べられているのであるが、人間は切羽詰まれば、誰しもが何をしでかすか分からない存在であり、可能性をひめているということである。核も、銃も、所有している以上、縁が熟せば容易に使われることは想像ができるのである。
今、ウクライナでの戦争において、ロシア側の「核」の使用の可能性に全世界が怯え、侵略への対応に軍事力の強化、あるいは核保有に向けての思いが強くなってきていることは、大きな不安をいだかせるものである。唯一の被爆国としての日本においては、核武装することはないことは分かっていても、「さるべき業縁のもよおさば」がとても気になるところである。
人類の未来において、「核」がほんとうに必要なのかどうかは、エネルギー問題も併せて考えてみれば、とても複雑で難しい問題があると思われるが、今に生きる私たち人間が責任をもって解決しておかなければ地球そのものの未来は見えてこない気がするのである。
「終活」。この言葉が話題になり始めてしばらく経つが、70 歳を過ぎ後期高齢者にもなると、やた
ら現実味を帯びた言葉として、胸に迫ってくるものがある。「終活」とは「終末活動」ということなの
だろうが、はたして何をどうすることが「終活」なのかと思いを巡らすことである。
納棺体験してみて己の死を想像してみるといったことや、身の回りの身辺整理、いわゆる「断捨
離」をするということが思いあたる。一般的には後者の方が多いと思われるのだが、具体的に何を
どうするのかは人それぞれであろう。
私が最近よく耳にすることと言えば、墓じまいや、仏壇じまいということがある。確かに跡継ぎ
がおられない方は深刻な問題となるし、たとえあってとしても子供に迷惑をかけたくない思いから
自分が生きているうちに何とか始末しておこうと思われることも当然の事ではあろう。しかし反
面、本当にそれで心がすっきりとして、心置きなくこの世を去っていけるものなのだろうかとも思わ
れてくる。使わなくなった家財道具や衣類を処分するのとはどこか違うのではないだろうか。
今まで生きる意味を尋ね、心の支えとして手を合わせてきた仏壇や墓は、死んだら無くなっても
良い物であったのだろうか。私たちは次世代への相続として仏壇や墓は本当に必要のない物だっ
たのだろうか。かつて、次男、三男が別れ家を出した折りには、親が何よりも第一に仏壇を持たせた
ということは、親のどんな思いが込められていたのだろうか。