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光受寺通信を文章でよむ

 

光受寺通信を「文章で読みたい」とリクエストがございましたので、
「住職のはじめの一節(序文)を」
そのまま文章でもお楽しみいただけるように追加ページを作成いたしました。

   
  • 2026年08月02日執筆
  • 生かされていることの不思議

    私がかつて住職になった頃、今は亡きご門徒のあるおばあさんが、近くのお地蔵さんにお花を供えたり、手を合わせたりされていました。その後には必ず東を向いて手を合わせ、何かをつぶやいておられたことを思い出します。たぶん「お念仏」だったと思います。

    来年は八十歳を迎える私の今、生かされていることの不思議を深く感じています。6月号には「生は偶然、死は必然」という多田孝圓氏の言葉を紹介いたしましたが、当たり前のことながら、全くその通りですと頭が下がる思いでいます。朝目が覚めること、一日の終わりが迎えられたこと、すべてが有難いこととして受け止められる気がいたします。

    今思えば、このご門徒のお念仏も私と同じ思いであられたのではないかと、勝手に想像をしています。浄土真宗においては「朝に礼拝 夕に感謝」という日々の生活における心の在り方を重んじていますが、改めてその意味を実感できたように思います。

     

    話は変わりますが、お寺の中庭には毎年フキや、ミョウガが育ちます。全く手をかけないで自然のままなのですが、今年も7月中旬にはこうして地中から姿を現し、花を咲かせています。この生き生きとした姿は今を生きる生命力に満ち満ちています。

    普段は気にも留めない日常の一瞬、一瞬に

    思わぬ感動が潜んでいるものです。

    それは時に眠った私の心を揺り動かす仏様

    の姿にも思えてくることがあります。「ただい

    たずらに明かし今日も過ぎ、明日も過ぐ」の人生に、これでよいのかと問いかけてくるのです。


     

  • 2026年07月07日執筆
  • 今年の夏もどうやら暑い夏になりそうです。エルニーニョ現象も現実的になりそうで、想像もできないほどの自然災害が発生するのではと、心配されるところです。

    さて今年の春から初夏にかけては、ほぼ毎日というくらい熊の出没のニュースが報道されていました。人里に現れた熊は、農作物を荒らし、人にも危害を加え、死に至らしめることも少なくありませんでした。ひと昔からすれば考えられないことではありますが、近年ではこうした傾向は年々顕著になってきているようです。

    なぜこのようなことになってしまったのか。それは、とりもなおさずブナ科のどんぐりや栗など熊の食べ物が実らなくなってしまったということなのでしょう。そう考えれば、熊にとっては山郷へ出ることは、生きるための命がけの行動だと考えられ、できることならば今まで自然にすみ分けられ、与えられた環境の中で安心して生きられる世界に生きていたいはずなのです。しかし今では生きられない環境になってしまったということなのでしょう。冬眠をし、その間に出産をし、子育てをする。熊にとってはまさに命がけの、命をつなぐ大切な季節なのです。

    確かに熊の出没は人間にとっては極めて不都合なことで、命にも関わることになってきています。駆除も致し方ないと思いながらも、もしこれが逆の立場であったならと思うと、複雑な思いにもなってしまいます。

    本来、地球は誰のものでもない、人間の都合だけで自然を、生態系を、地球を壊し続けてはいけないと思うのです。地球に住まわせていただいているという謙虚な思いを忘れてはならないと思うことであります。

     

  • 2026年06月09日執筆
  • 世間虚仮

    「世間虚仮 唯仏是信」この言葉は、仏教を「四生(生きとし生けるもの)の終帰(よりどころ)、万国の極宗(依るべき教え)として位置づけられ、『十七条憲法』を始め、すべての活動の根底に据えられ国づくりに努められた聖徳太子の晩年のお言葉です。

    この言葉の意味するところは、「人が追い求める金、名誉、権力などは虚しく(虚)、仮(仮)の姿であり、心の平安をもたらす真実ではない。究極的な心のよりどころを与えてくれるのは、世間を越えた存在である仏の教えのみである」ということ。

    さて、最近の新聞、テレビのニュースを見て、心苦しくなることがしばしばあります。残虐な殺人事件に、何人殺しても犯罪にならない戦争は次々と起こり、ネット犯罪等も後を絶ちません。世界の政治・経済の行く末は見えず、真偽に振り回されながら、さまよい続けている私たちの現実がみえてきます。

    今、改めて親鸞聖人の歎異抄(後序)に伝えられています「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」という言葉が思い起こされてくるのです。

    煩悩具足の凡夫を生きる私たちが、世間に埋没している限り、世間が虚仮であることはなかなか理解できないものです。虚仮を超えた真実の世界と照らし合わせて初めて世間が虚仮であることが実感されてくるのが、悲しいかな私たち凡夫なのではないでしょう

    か。

    聖人ご自身も、煩悩具足の凡夫との自覚の上に立って「愚禿」と名告(なの)られ、「浄土真宗に帰すれども 真実の心ありがたし 虚仮不実のわが身にて 清浄の心さらになし」と『正像末和讃』に

    記されています。

    こんな私でも救われるのだろうか。

    それには阿弥陀様によって言い当てられ、証明された自分に頷くこと、罪悪深重の身であることに頷くことが大切なのです。それを「自信」と言います。

    聖人ご自身も、ありのままのわが身の事実をごまかさずに受け止められ、この和讃を書かれたと思われるのです。

    阿弥陀さまはそんな生き方しかできない身であることを憐れみ、煩悩を持って生きるそのままで必ず救うと約束されてくださっています。その弥陀の誓願を信ずるほかに道はなしと、知らされてくるのです。

    「わたしゃ大きな目をもろうて 浄土のような目もろうて なむあみだぶつ なむあみだぶつ」  妙好人 浅原才市


     

  • 2026年05月06日執筆
  • 最後の贈り物

    先月、不治の病で入院されていた八十代の女性が亡く

    なられました。ご主人を三年ほど前に亡くされ、ほど

    なく入院されたといいます。

    お花が大好きで、お庭ではバラやチューリップといった花をたくさん育てていらっしゃったようです。庭に出れば時間を忘れたようにお庭造りに没頭され、日が暮れてしまうこともしばしばだったようです。

    葬儀当日の喪主(長男)さんのご挨拶では、やはり「お花」を話題にされました。花や庭にはあまり興味のないという息子さんのようですが、お母さんの入院以降、荒れ放題になってしまっている庭を気にしてはいらっしゃったようです。

    そんなある日、庭にお母さんが育てていらっしゃったチューリップや水仙がきれいに咲いているのを発見されたのだそうです。息子さんはさっそくその様子をスマホで撮り、病院にいるお母さんに見せに行ったといいます。

    「写真にして持ってきてちょうだい」。この時の少女のように明るく、弾んだ声は生気に満ちあふれていたといいます。それは奇(く)しくも、お亡くなりになる数日前のことでした。

    息子の思わぬはからいと、大切に育てていた花がきれいに咲いるのを確かめられた喜びは、お母さんにとって、きっとこの上もなくうれしかった人生の一コマとなったことでしょう。

     

    人は親を亡くして親を知り 親を亡くして親と出遇う。

    お母さんの笑顔は、息子さんへの最後のプレゼントとなったのではないでしょうか。一粒の種となって。


     

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