Communication

   

光受寺通信を文章でよむ

 

光受寺通信を「文章で読みたい」とリクエストがございましたので、
「住職のはじめの一節(序文)を」
そのまま文章でもお楽しみいただけるように追加ページを作成いたしました。

   
  • 2019年06月10日執筆
  • 人間は死んだら終わり、と人は言う。しかし私は死んだら終わりのような人生を、今歩んでいるの だとは思いたくはない。「何のために生まれ、何のために生きているのか」。この問いを問い続ける 人生に「死んだら終わり」かどうかの応えは自ずと知らされてくるものだと思っている。「死んだら 終わり」は、ともすると自分勝手な思いに結びつきそうで、空しい人生になりそうな気がしてならな い。 真宗では死んだら「浄土へ生まれ往く」のだと説かれている。そしてまたお浄土から南無阿弥陀 呼び声となって再び還ってくるのだとも説かれている。後生があるのかどうか、それは「信ずるよ りほかに別の子細なきなり」(歎異抄)ではあるが、今の私にとって「信」をいただくということは、 何のために生きているのかを問い続けていくことでしかないと思っている。

  • 2019年05月07日執筆
  • 自覚

    境内は柔らかな緑で一面が覆われ始め、自然の生命力を五感で感じられるとても良い季節になってまいりました。

    さて、近年は高齢者の運転事故が際立っているようです。しかも大事故につながる例も多く、大きな社会問題ともなっています。私も今年、高齢者講習を受けてまいりましたが講義で繰り返し話に出たのは、「自覚を持って安全運転に心がけよ」ということでした。

    「自覚」とは本来は仏教用語で、まさに「自らを覚る」ということなのでしょうが、一般的には「自分自身の置かれている状態や自分の価値を知ること」といったところでしょうか。

    「他人のふり見て我が身を直せ」とは言われます。「他人のふり見て」がご縁となり、「我が身を直す」のが自覚となってくれば問題ないのですが、どこまでも他人事で「自覚」にはなってこないのはどうしてでしょう。たとえそれが生死に関わるご縁であったとしても、ご縁がご縁となってこないです。私とは、ほんとうに厄介なものです。


     

  • 2019年04月04日執筆
  • 「当たり前」に思う。

    最近テレビを観て楽しむことも随分と少なくなった。観るとしてもニュースかドキュメンタリー番組がほとんどである。そんな中でもNHKの「日本の里山」は欠かさず観るようにしている。また娯楽番組的な感じもあって楽しませてくれる「チコちゃんに叱られる」は大いに気に入っている。チコちゃんの質問はいつも日常にあって、しかしいつも新鮮な感動を与えてくれる。それがいい。

    「なんで大人になると一日が早く感じられるの」。こんな質問があったが、改めて考えてみると答えがなかなか見つからなかった。そして、その答えは「トキメキがないから」ということだったが、私も一日どころか一年さえも短く早く過ぎ去るように感じていたことから、妙に納得させられてしまったことだった。「トキメキ」とは「期待や喜びで胸躍る状態の事」と辞書には書いてあるが、なるほど自分の生活にはトキメクことなどほとんどないことに気づかされたきっかけでもあった。

    すべてが当たり前の生活の中では「驚く」ことはあっても「感動し、心がトキメク」ようなことにはなかなか出会えないのかもしれないと思われる。私たちが呼吸をし、心臓が動いていることに無意識でいるように、「当たり前」の意識は不思議を不思議に思う心を麻痺させてしまっている状態であり、感覚ではないだろうか。日常の当たり前を見つめなおす眼をいただこうとするところにこそ、仏法のおはたらきがあるのだと、そう教えられているように思えてくることだった。


     

  • 2019年03月05日執筆
  • 見えない「いのち」

    ここ最近豚コレラのニュースが新聞、テレビで大きく報じられている。2月の下旬では3万頭を超える豚たちが「殺処分」されたともいう。一方動物虐待に関するニュースも次々と報じれ、映像として私たちの眼に飛び込み、怒りとやりきれなさが沸き起こってくる。

    私はこの対比された「いのち」の重さの受け止め方の現実に、人間の生々しい姿を見たような気がした。もともと「いのち」とはこの地球上において等しく重いものであると思っているが、どこまでも人間の都合によって左右されてしまうものなのだと、改めて認識した次第である。

    「殺処分」とりわけこの言葉の使い方に、私は怒りにも似た感情を抱いてしまう。「いのち」を処分するとは何事なのだと。まるで単なる「もの」を処分する感覚ではないか、そう思えてくるのである。「いのちがみえない」時代。私はかねがねそんな思いを抱いてはいたが、毒ガスや注射で苦しんで死んでいく豚の姿は見えてはこない、豚肉としてスーパーにきれいにラッピングされ売られているものしか見えていないのだ。

    私は思うのです。人間が人間を虐待することも日常的に起こり事件化している現実は、ある意味私たちのこうした日常の感覚から生まれ出る、悲しくも当然の結果なのではないのかと。

    私たちは他の「いのち」をいただきながら生かされている存在なのだという謙虚な思いと、感謝の思いを忘れてはならないと思う。ペットを慈しむ思いも、食としていただく豚への思いも本来同じものでなければならないと思うのである。

    今回の一連のニュースの中で、唯一救われた思いがしたことは、絶望のどん底にある養豚業者の「私も豚と一緒に埋めてほしかった」。という言葉であった。


     

Contact

お問い合わせ

0584-62-5722

岐阜県大垣市墨俣町墨俣211