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光受寺通信を文章でよむ

 

光受寺通信を「文章で読みたい」とリクエストがございましたので、
「住職のはじめの一節(序文)を」
そのまま文章でもお楽しみいただけるように追加ページを作成いたしました。

   
  • 2021年04月08日執筆
  • ありのまま

    今年はメジロの姿を一度も見なかった。あるご門徒様のお宅にも、毎年やってくるはずのメジロの姿は見えなかったという。その理由は全く分からないのだが、何かこの地方に特有のわけでも発生しているのであろうか。毎年メジロの来訪を心待ちにしている私は、何か忘れ物でもしたような思いになってしまっている今年の春である。

    境内の梅の木も昨年ごろから枝枯れが目立ち始めてきた。飛龍梅も例外ではなく上部の枝がほとんど出なかった。自然のありのままの梅の姿を見つめながら、毎年の期待を込めた思いも作業も、自然の前では無力なのだと改めて知らされたことだった。


     

  • 2021年03月06日執筆
  • ただ願うべきは後生

    それおもんみれば、人間はただ電光朝露のゆめまぼろしのあいだのたのしみぞかし。たといまた栄華栄耀にふけりて、おもうさまのことなりというとも、それはただ五十年乃至百年のうちのことなり。もしただいまも、無常のかぜきたりてさそいなば、いかなる病苦にあいてむなしくなりなんや。まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も、財宝も、わが身にはひとつもあいそうことあるべからず。(「御文 一条第11通」) この御文は蓮如上人59歳の吉崎時代に書かれたものであるとされる。当時の平均年齢が56歳とあることから、すでに人生の無常を身をもって感じ取られていた頃なのであろう。しみじみと思いやられるお言葉である。

    現在では100年時代と言われ、90代でも元気に活躍されている方はいくらでもいらっしゃるが、最期がおとずれることに間違いはない。ひたすらに健康を願い、どう生きようとも避けられない運命をいきているのである。

    昨年から今年にかけては80代、90代の方々がお亡くなりになられた。それぞれに歩まれた、その人の人生を私の知る限り振り返りながら、この御文をいただいたことである。私もいつしか晩年を生きている。「ただ願うべきは後生」その真実に導かれながら今日も生きているのである。


     

  • 2021年02月03日執筆
  • 自給自足生活に思う

    最近のテレビ番組で自給自足の生活をしている人たちを紹介していた。たった一人で生活している人も、また家族で生活している人たちも様々であった。また自給自足の生活をするに至った理由も様々であったが、皆さんとてもたくましく生きていらっしゃることに感動をした。厳しい自然と向き合いながらの生活ではあるが、生きるということがどういうことなのかが直に実感できる生活でもあるようだ。

    田舎で一人暮らしの女性は、若いころ保母として働いていた経験を持つという。しかし突然耳が聞こえにくくなり、仕事に支障をきたすようになったことから、上司からは全人格を否定するような言葉を浴びせられ、仕事を辞めざるを得なくなったと話す。「ここはありのままの私のすべてをそのまま受け入れてくれる。私の人格を否定するものは何もない」というようなことを話されていた。畑を耕し、薪を割り、ささやかな自然の恵みに感謝しながら生きておられるその姿は生き生きとしていた。そしてそこにはその姿に共感された人々が集い、助け合い、慈しみ合う世界が広がっていた。

    また自給自足の生活で育てられた兄弟で「高校へは行かない」。「ここで生きる」と断言した子供には少々驚かされたが、それぞれに夢を持ち、ここで生きることの意味をしっかり確かめ生きているその姿に大切なことを教えられた気がした。

    私たちが思って生きている幸せは、本当に幸せな姿なのだろうかと深く考えさせられたことだ。


     

  • 2021年01月02日執筆
  • 人生百年時代の到来。私は今年で74歳になるが、あと二十数年生きられると思うと、何の保証はないものの何となく希望が持てるような気がしてうれしくなる。全国では百歳以上が8万人を超え、しかも年々それは増加傾向にあるというのだから。

    しかし私は思う、この20年をどう生きるかが大問題なのではないかと。最近、「健康寿命」が話題になっているが、残念ながら私は健康には全く自信がない。血圧は驚くほど高く、中性脂肪も悪玉コレストロールもたっぷりと体に蓄えている。これではとても長生きはできそうにない。医者へ通ってはいるが、いずれにしても私には「健康で長生き」の条件には全く当てはまらないようだ。

    さて、あと何年。「どう生きるか」が私にとって最大の課題である。今までの人生では反省することも悔いることも多々あるが、住職として歩み始めてからの人生では悔いることはほとんど思い当たらないでいる。寺の活性化に取り組み、様々な試みを実践していた頃は、とても充実した人生を送っていたように思える。多くの人と出会い、同じ方向を向いて、ともに歩んできた人生での経験は、今の私を支える基盤ともなっている。

    「去年今年貫く棒の如きもの」(高浜虚子)。今年もまたこんな思いで生きて行くことになるのだろうが、仏法に生かされていく人生を皆様と共に確かめ合いながら生きて行けたらと思っている。

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