Communication

   

光受寺通信を文章でよむ

 

光受寺通信を「文章で読みたい」とリクエストがございましたので、
「住職のはじめの一節(序文)を」
そのまま文章でもお楽しみいただけるように追加ページを作成いたしました。

   
  • 2019年04月04日執筆
  • 「当たり前」に思う。

    最近テレビを観て楽しむことも随分と少なくなった。観るとしてもニュースかドキュメンタリー番組がほとんどである。そんな中でもNHKの「日本の里山」は欠かさず観るようにしている。また娯楽番組的な感じもあって楽しませてくれる「チコちゃんに叱られる」は大いに気に入っている。チコちゃんの質問はいつも日常にあって、しかしいつも新鮮な感動を与えてくれる。それがいい。

    「なんで大人になると一日が早く感じられるの」。こんな質問があったが、改めて考えてみると答えがなかなか見つからなかった。そして、その答えは「トキメキがないから」ということだったが、私も一日どころか一年さえも短く早く過ぎ去るように感じていたことから、妙に納得させられてしまったことだった。「トキメキ」とは「期待や喜びで胸躍る状態の事」と辞書には書いてあるが、なるほど自分の生活にはトキメクことなどほとんどないことに気づかされたきっかけでもあった。

    すべてが当たり前の生活の中では「驚く」ことはあっても「感動し、心がトキメク」ようなことにはなかなか出会えないのかもしれないと思われる。私たちが呼吸をし、心臓が動いていることに無意識でいるように、「当たり前」の意識は不思議を不思議に思う心を麻痺させてしまっている状態であり、感覚ではないだろうか。日常の当たり前を見つめなおす眼をいただこうとするところにこそ、仏法のおはたらきがあるのだと、そう教えられているように思えてくることだった。


     

  • 2019年03月05日執筆
  • 見えない「いのち」

    ここ最近豚コレラのニュースが新聞、テレビで大きく報じられている。2月の下旬では3万頭を超える豚たちが「殺処分」されたともいう。一方動物虐待に関するニュースも次々と報じれ、映像として私たちの眼に飛び込み、怒りとやりきれなさが沸き起こってくる。

    私はこの対比された「いのち」の重さの受け止め方の現実に、人間の生々しい姿を見たような気がした。もともと「いのち」とはこの地球上において等しく重いものであると思っているが、どこまでも人間の都合によって左右されてしまうものなのだと、改めて認識した次第である。

    「殺処分」とりわけこの言葉の使い方に、私は怒りにも似た感情を抱いてしまう。「いのち」を処分するとは何事なのだと。まるで単なる「もの」を処分する感覚ではないか、そう思えてくるのである。「いのちがみえない」時代。私はかねがねそんな思いを抱いてはいたが、毒ガスや注射で苦しんで死んでいく豚の姿は見えてはこない、豚肉としてスーパーにきれいにラッピングされ売られているものしか見えていないのだ。

    私は思うのです。人間が人間を虐待することも日常的に起こり事件化している現実は、ある意味私たちのこうした日常の感覚から生まれ出る、悲しくも当然の結果なのではないのかと。

    私たちは他の「いのち」をいただきながら生かされている存在なのだという謙虚な思いと、感謝の思いを忘れてはならないと思う。ペットを慈しむ思いも、食としていただく豚への思いも本来同じものでなければならないと思うのである。

    今回の一連のニュースの中で、唯一救われた思いがしたことは、絶望のどん底にある養豚業者の「私も豚と一緒に埋めてほしかった」。という言葉であった。


     

  • 2019年02月04日執筆
  • 煩悩具足の凡夫

    「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのことみなもってそらごとたわごと、あることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」。『歎異抄』

     

    「火宅無常の世界」とは、火に包まれた家が、見る見るうちに滅びていくような無常の世界という意味です。そして、その世界には、真実と呼べるものはなく、すべてのものが、空言、戯言であり、ただお念仏だけが真実であるというのです。

     

    確かにこのお言葉をいただいて、世間をながめていますと、人間の煩悩の織り成す世界では真実はなかなか見えにくくなっているようです。損か得か、勝つか負けるかそんなことばかりに命を削り、駆けずり回って生きている人間の姿が、まるで地獄絵図でも見ているように思えてきたりもするのです。自分の都合ばかりを優先した生き方は、虚を生み、人を苦しめ、はては人を殺める事件にまでになっています。毎日の新聞やテレビで報道される尽きることのない煩悩具足の凡夫の生々しい姿に、心を痛めているのは私だけではないでしょう。

     

    しかしこれはまた私自身の姿であることも決して忘れてはならないと思うのです。空言、戯言に振り回されてばかりの私であった自覚こそが、虚しく過ぎ去ろうとしている人生を、実り豊かな人生へと導いてくれる手掛かりとなるのではないかと思われてくるのです。


     

  • 2019年01月06日執筆
  • ボーッと生きていられない

    「ボ~ッと、生きてるんじゃないよ」。例のチコちゃんの言葉ではないが、今までの人生を振り返れば、時代に流され流されて、ただボーッと生きてきたような気がしてならない。与えられている世界を改めて見つめ直す機会や、心の余裕もなく、ただ漫然と生きてきたのではないだろうかと。

    さて、今年は亥年である。干支の最後の年でもあり、元号「平成」の終わる年でもある。そしてまた私の干支ともなる年である。

    この区切りの72歳を生きるにあたって、改めて自分が「生かされている」ことの意味を真剣に問うていくことがなければ、このままただボーッと一生が終わっていくような気がしてならない。チコちゃんの言葉を、ただ笑ってやり過ごすことなどできない気がしてきたのである。


     

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