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光受寺通信を文章でよむ

 

光受寺通信を「文章で読みたい」とリクエストがございましたので、
「住職のはじめの一節(序文)を」
そのまま文章でもお楽しみいただけるように追加ページを作成いたしました。

   
  • 2026年01月31日執筆
  • お正月は、我が家にとって年に一度の、親族そろって「おせち」を囲む貴重な機会となっている。

    全員が集合できるのは、大晦日の夜更かしもあってか午前十一時ごろ。まずは阿弥陀さまの前に身を置き、全員で正信偈を唱和する。その後は、新たな年の始まりに笑顔は絶えず、何やかんやの話に花が咲き、そしていよいよ宴の始まりとなる。

    と、長女がざわめきの間隙をついて、職場の同僚の話を持ち出した。同僚の甥っ子の話であった。その小学校2年生の甥っ子が学校の先生から「みんなが今一番大切にしているものを学校にもってきてください」と告げられ、おじいちゃんの遺影を持って行ったという。

    それを聞いた私たちは一斉に大笑いをしてしまったが、瞬時にこれは笑うことではないなという雰囲気が漂った。先生も最初はきっと驚かれたことであろう。何の授業でどんな目的があってのことかはわからないが、それは先生も想像だにもしていなかったことに違いない。しかし、そのあまりの純真な心に心打たれたのであろう、涙されたという。この思いは私たちも変わりはしなかった。

    この甥っ子さんの行いを通して、この家庭の環境も容易に想像することができる。確かにこの家庭のおばあさんは日常の仏事を大切にされ、朝夕の勤行は欠かすことがないという。職場の同僚もお仏壇にお参りをしなければ食事ができなかったという、この家庭の中での不文律は、厳しくも先祖を思い家族を思う優しさをも育んできたように思える。この少年のほっこりとした話は、年の初めの尊いお年玉となった。

  • 2025年12月31日執筆
  • 本願力にあいぬれば

    昨年の報恩講では準備から後片付けに至るまで、ご門徒の皆様の報恩感謝の思いと、ご尽力によってお勤めさせていただくことができました。誠にありがとうございました。

    さて、その昔は「人生五十年」と言われていました。蓮如様のお文(4帖の2)にも「それ人間の寿命をかぞうれば、いまときの定命は五十六歳なり」とあります。このことを考えると、まだまだ私も頑張れるのかなと思ったりもするのですが、それは平均寿命の延(のび)をもって人生を油断させ、緩慢な思いにさせているだけのことなのでしょう。たとえいくら長生きをしたとしても人生の終焉の時は必ずやってくるものです。

    そこで人生で最も大切なことは何かと考える時、五十歳であろうと百歳であろうと「出会うべきものに出会っていく」人生でなかったならば、それは人間として生きたことにはならないし、空しい人生に終わってしまうのではないかと思うのです。

    「本願力にあいぬれば むなしくすぐる ひとぞなき」

    (観仏本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海)

    親鸞聖人ご絵像の讃題

    これは『高僧和讃』のお言葉です。私たちは人生の長短に関わらず、あてにならないものを必死に追い求め、幸せを掴もうと必死に苦労して生きてきました。しかし、「まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子(さいし)も財宝(ざいほう)も、わが身(み)にはひとつもあひそふことあるべからず」と、やはりお文にあるように、結局は自分一人で空しくこの世を去っていくことになってしまうのです。

    本願力に会うとは、聞法して本願を信じ念仏を申す身となることです。阿弥陀仏の本願力に導かれ、苦悩に満ちた人生から自らの思いやはからいを超えた本当の自分に目覚めてゆくことです。


     

  • 2025年12月08日執筆
  • 年賀状じまい

    近年は、年々発行される年賀状が少なくなってきているそうだ。若い年代層においては、全く書かないという人も少なくないという。

    そのことが良いか悪いかはともかくも、人間関係が希薄化してきたことや携帯、スマホの普及によってメールで簡単にすまそうとする思いが主流になってきてからなのだろうか。

    そしてついには「年賀状じまい」の思いの加速となった。年々人恋しくなってくる老人にとっては寂しさが募る。私にとっての年賀は、一年間のご無沙汰に安否を思い、一文字一文字にその人を思い起こしながら近況を知らせ合うことが、心に安らぎでもあり、新しい年への一歩を踏み出す希望ともなっていたものだった。

    確かにスマホは近況を知らせるにおいても直接的で、効率的であることに間違いはない。この魅力には年賀状を書くというアナログではとうてい太刀打ちはできないことであろう。しかし、この一枚一枚に思いを込めて書く年賀状の「面倒くささ」にノスタルジックな魅力があることを思うと、大切にしていきたい日本の文化でもあると思っている。

    また、こういった風潮は年賀状にとどまらず。「何々じまい」が流行のように広がりつつもある。「墓じまい」に「仏壇じまい」と、先祖まで切り棄てていってしまう昨今である。挙句の果ては終活ともなり、何のために生まれ、何のために生きてきたのか、人生の総括がこれなのかと思うと、寂し過ぎる気がしてならないのである。

    「終活」と「往生」とは関係ないことを知っておくべきであろう。


     

  • 2025年11月15日執筆
  • 因縁

    「人は転ぶと坂のせい 坂がないと石のせい 石がないとクツのせい  人はなかなか自分のせいにはしない」 これは森繁久彌さんの言葉です。

    この言葉に出会ったとき思わず笑ってしまいましたが、日常生活ではよくある自分の姿でもあると思ったのです。誰かのせいにしないと気が治(おさ)まらないこともあり、時には夫婦喧嘩にまで発展してしまうことさえある厄介な思いなのです。

    例えば食事の準備中に誰かが食器を割ったとします。それを見ていた家族の誰かが「あ~あ~大事な食器を割って」と言って相手を攻めたりしますが、しかし、自分が割った時にはどう言うのでしょうか。多分とっさに「アッ、割れた」「割れちゃった」と無意識に言ってしまうのではないでしょうか。食器がひとりでに割れるはずがないのですが。

    仏教には「縁起」という考え方があります。「縁起」とは「因縁正起」という言葉を省略した言葉ですが、正起(結果)の背景には、その直接的な原因と、直接的な原因に関わる間接的なもろもろの縁があるというのです。時間であったり、場所であったり、天気であったり、気分であったり、その他もろもろの諸条件(縁)が重なり合って正起となるのです。

    自分は正しい。相手が間違っているという安直な因果関係の捉え方は、時として争いの原因にもなりかねません。互いに尊重し合える関係を「因縁」という言葉を通して育んでいきたいものです。

    ※種から花が咲くのは、種(因)だけでなく、土、水、光、人

    による世話(縁)など、多くの条件が揃うことで初めて実現します。


     

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